7月に発売された青ブタ最新刊『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』を読んでいて、9巻から11巻(『ランドセルガール』、『迷えるシンガー』、『ナイチンゲール』)の話の内容がすっぽり抜け落ちていたので、読み返すことにした。
うち、『ランドセルガール』を読み終えたので、読み終えた当時感じて行動したことと、今感じていることを書いておく。
当時の感想
よく分からなかった、というのが当時の率直な感想だった気がする。
ブクログにも感想の記録が残っていないので、本当によく分からなかったのだと思う。
ただ、1巻から9巻までを読んでいて、大切なのは登場人物の彼、彼女たちが直面した問題(事態、事象)について、どう考えて、そしてどのように問題と折り合いをつけていくのか、それを見るべきなんだと思う、と書いていた。
これに関しては今も変わっていない。
折り合いをつけながら大人になっていくものと感じたので、当時自分が抱えていたこと(留年していること、前年来ていなかったこと、実はゼミ2年目であることなど)、そして無事に1年間過ごせたことを当時所属していたゼミの仲間に伝えて、感謝を伝えることが出来た。
正直なところを言えば、言った事によって相手に気持ちを押し付けていないか、という恐れや不安はその当時も抱えていたし、今も時々、その時にゼミの仲間に言って良かったのだろうか、と思う瞬間もあるのだけれども、自分の問題に対して折り合いをつける、という意味においてはその選択しかなかった、とも思っている。
気持ちを押し売り、気持ちを押し付けた部分も確かにあったが、そうしないと解決できない問題もあるのだと。
この一歩があったからこそ、就活においてボコボコになりながらも踏ん張れて、今があるような気がする。
人生におけるターニングポイントだった出来事の一つ言っても疑いの余地がない。
「『青春ブタ野郎』が夢を見ない」ことについて
なぜ、ランドセルの少女(小さな麻衣さん)が出てきたのだろうか。
当時謎だったが、今はっきりと言えることとしては、彼女は(ナイト)メアなのだと思う。
少女が麻衣さんの姿かたちをしていたのは、咲太にとって一番身近な女性が桜島麻衣だったからであって、それ以上の意味合いはないのではないかと考える。夢の中に「女性」という存在が現れて、咲太の心理の中で「女性」に一番結びついている存在が麻衣さんだったから、女性(少女)を麻衣さんと認識した(のように見えた)。
「ランドセルを背負った少女の姿」に関しては、断定して言えることはないが、恐らくは桜島麻衣だと確定させないため、なのではないだろうか。
(※ただし、作中では「咲太自身の幼さを表現するために少女の姿をしている、容姿が麻衣さんなのは素直に会話しやすくするため(大意)」と咲太が自身が考えている描写があることは念のため。『ランドセルガール』p.221)
これらを考えているうちに、もしかして「『青春ブタ野郎』シリーズ」の物語自体が、梓川咲太にとってのナイトメアなのではないかと考えるよう至った。
思春期症候群を引き起こす人物が主に女性であるという点においても、共通である。
だけど、なぜ「青春ブタ野郎は夢を見ない」のか。
それは、各ヒロインが発現する「夢」(思春期症候群)そのものはナイトメアではあるのだけれども、それは咲太にとってはナイトメアではないと考えているから、否定形の「見ない」になっているのである。
「麻衣がいるだけで、咲太は幸せだった。でも、咲太はもう知ってしまった。理央や佑真がいてくれた方が心強いことを。朋絵やのどかがいた方が、笑いが絶えないことを。花楓がいた方が、がんばれることを。」(『ランドセルガール』p.263)
咲太は思春期症候群を通して数多くの難問に直面したが、同時に人物と知り合うことが出来た。
思春期症候群なんかに巻き込まれず過ごせていたほうが良いかもしれないが、その後を知ってしまっている以上はなかったことには出来ない。だから、「青春ブタ野郎(梓川咲太)」としてはナイトメア(夢)を見ない、見ていない(ナイトメアではない)と否定しているのである。
もしかして、『ランドセルガール』で物語は一応完結していたんじゃないか……?
ランドセルガールの物販・来場特典?
「かえでノート」みたいな感じで……
公開日は12月1日(金)。頑張ろう。
追伸
『ランドセルガール』の映画公開が12月1日に決定したと、電撃の公式放送内で発表があった。
『おでかけシスター』ので描かれていた卵焼き以上の甘く温かい空間が、『ランドセルガール』では描かれることは必至である。
これが一番の楽しみかもしれない。
あと原作では地味にづっきーも出てくる(pp.89-90)ので、映画で描かれるのかも必見。
・出典
鴨志田一『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』KADOKAWA,2018.