2024年09月22日

138億光年の孤独。

秋の彼岸に入ったので、今年の3月に亡くなった父の闘病生活、また最期の日の出来事を忘れないために書き記す。



父が悪性リンパ腫と診断されたのは亡くなる丁度2年前のことであった。
会社から帰ろうとしていた際に父から電話があり、悪性リンパ腫との話を聞く。この時はまだステージの話は聞いていなかったが、詳しい診断が数日後に出てステージ4と知らされる。とても動揺していたのを思い出す。
しかし、当の本人は「大丈夫やわいや」と表面上は気にしていない素振りをみせていたが、今思うと生母が同じ血液のガン(白血病)で亡くなっていたため、心配をかけまいと虚勢を張っていただけだったかもしれない。この父の他人に、親しい人に詳しい病状を伝えず元気に振る舞っていたのは、亡くなる直前まで続けており、詳しく病状を聞かなかった私も悪かったのであろうが、急変する今年の3月まで病状の深刻さなど本当にわからなかった。

2022年の4〜10月にかけて、1週間入院し抗がん剤の投与、3週間自宅で過ごすを6セット繰り返し、継母によれば一時がんが消えていていたとのこと。その頃に父からも電話があり、治療がうまく言っていたことを聞いていたので、心から安堵し、再発がなければ良いと思っていた。

しかし、早くも同年11月に、発熱が続いたため病院に行くと、検査で再発が発覚。骨盤全体に病巣が広がっていたようである。治療によって再び入退院を繰り返す日々が始まる。
入院中は趣味の本や好きなアーティストのDVDを自室で見ており、亡くなった後で看護婦の方から聞かされたが、「息子が買ってくれた」と喜びながら話していたそうである。

抗がん剤の投与によって進行はある程度食い止められていたようであるが、副作用によって手足の痺れが酷くなり、2023年の12月には歩行器なしでは自力での歩行が困難になり車を運転できなくなっていたことを後に聞く。
その少し前の8月に出会った時はそんな症状はなく、自分で車を運転していたので、秋ごろから症状が酷くなってきたのだと思う。

同年12月に最後の入院生活に入る。時期的に(恐らく)入院直前だったと思うが、父から電話があり、今まで以上に地元に戻ってきて欲しい内容の電話を受けていた。兵庫に来て依頼、時たま電話越しに地元に戻る気はないのかと話があったので、またその話程度に思っていたが、いつもより強い口調だったので、少し気がかりではあった。しかし、詳しい病状や症状についてはこの時点になっても本人から知らされていなかったので、父が自分の将来を見据えて発言していたとは一つも気づかなかった。

2024年1月、元日に大きな地震発生。状況を知るべくすぐに父に電話をかけたが、そこまで弱っている声ではなかった。
同年1月より、使用していた抗がん剤の副作用であるしびれが酷いため、新薬による治療を始める。母から聞いた話では、父は新薬に対して希望を抱いていた模様である。しかし、新薬を使用し始めてから1ヶ月が経った2月に、病状が良くならない、むしろ悪化している現状に対して「いかさま」と母に不満をぶつけていた。2月の終わりごろには白血球週と血小板数がほぼ0になる。

そんなことを知らずに1月と2月に複数回電話をしたが、そのうちの1回、1月28日の電話だったとは思うが、その時に「もっと家のことを心配しろ」と怒られたのを覚えている。父は、もう先が見えていたのかもしれない。
2月の終わりに、父からではなくほとんど連絡することがなかった母から電話。3月1日にお見舞いに行くことを提案される。

3月1日、父の入院している病院に行く。キーパーソン(母)以外とは面会は出来なかったため、直接会って会話は出来なかったが、動画をお互いに撮ってやり取りは行えた。しかし、相当弱っている姿、またまともに発語出来ない姿を見て、ようやく父が危ない状況なのではないかと感じた。同時に、この近い将来に起こ得る出来事に対して、自分の心配事ばかりを感じる様になった。

3月に入ってから急速に父の病状が悪化。肝臓と腎臓の数値が悪化し、また会話も難しくなる。体調がいい日は好きなジュースを飲みプリンを食べる事もでき、電話(会話)も出来たようであるが、自分が面会に行った日のような酷い日は会話がままならなかった。
3月の最初の方に「まだ生きたい」、「(姉の子である)孫と会いたい」と母に漏らす。また、生前の感謝を伝えるメッセージを書き残し、それを自身の葬儀の時に、参列者に渡すように母に伝えていた。

3月の中頃に母から「父はもうだめかもしれない、キーパーソン以外の方とも面会が出来る様になった」と連絡が入り、18日に面会に行く。父の死、それも差し迫った死を前にして、何を話せば良いのか、何が話せるのか、考えながら病院に向かう。
しかし、残念ながら会話することは叶わず、こちらからの呼びかけに短い応答がある程度であった。しかし、元気な時(23年12月か翌年1月?)に言われていたこと(任されていたこと)はやり遂げる、と伝え、父からも応答があったことは覚えている。
短い面会の後、母や病院関係者から父たっての希望で自宅に帰還したい(最期を自宅で迎えたい)ので、退院を予定していることを聞かされ、同意し一旦帰兵する。

19日、残業をしていると母から「病院から危篤の連絡がきた」との電話が入り、急いで石川に向かう。5、6時間はかかるのでもしかしたら死に目に会えないかもしれないことが一瞬頭をよぎったが「生きている父に会いに行く」と決心し、20日の午前1時過ぎに病院に到着。
以下、亡くなるまでの父の容態を書き記す。

3月20日 1時30分ごろ 150〜160回/分程度。下顎を動かして、「ぜいぜい」といびきをかくような、嘶くような呼吸(死前喘鳴)が見られる。酸素濃度は98%前後、呼吸回数は20〜30回/分。
「お父さん」との呼びかけに対し、呼吸音とは違う比較的短い応答が返ってくる。目は数回開いて、呼び掛けた方(こちら)を伺うような仕草を見せる。
3月20日 3時過ぎ 心拍数が100前後に低下。酸素濃度98%前後、呼吸回数は20〜30回/分。深い呼吸が繰り返される。
3月20日 〜10時 3時過ぎごろからの比較的安定した状態が継続。
3月20日 10時頃 黒色の分泌物を嘔吐。シーツ等が黒くなる。心拍数が150前後に増加。
3月20日 11〜16時 心拍数が再び上昇。120以下に落ち着くこともあったが、150〜160程度で推移。酸素濃度は100%付近を維持。呼吸が乱れ始め、回数も40回前後と増える。いびきのような音を伴う呼吸は発声が大きくなり、ヒューヒューとした音を伴う呼吸、寝息をたてるような静かな呼吸、の3パターンが繰り返されるようになる。血圧は低いままだが、計測は可能であった。痛みによる苦痛の表情を時折みせる。
3月20日 20時ごろ 心拍数は140〜150程度。呼吸が浅くなり、呼吸音も小さくなる。呼吸回数も20〜30回に減少。3度ほど血圧の測定を行うも、いずれも計測不能。酸素濃度が90%を切り酸素マスクを着用し、95%程度まで戻る。
3月20日 20時30分ごろ (簡易)酸素マスク着用後、酸素濃度が95%で推移していたものの、徐々に低下し始める。こちらからの話しかけに対して「ああ」とも「うう」とも「おお」とも取れるごく短い応答と、目を薄く開けてこちらを見る。直後酸素濃度が80%台からさらに80%を切るに至り、リザーバー型の酸素マスクに換装する。
3月20日 20時40分ごろ 酸素濃度が低下の一途をたどる。心拍数も100以下に低下。
3月20日 20時50分ごろ 酸素濃度、呼吸回数が計測不可能になると程なくして心拍数も0に。
2024年3月20日 21時10分 永眠
(※最期の20分間は実際に時計を見ていたわけではなく、心拍が無くなった数分後に確認した時刻20時55分ごろから逆算して推測)


病院に到着した時、父が生きていてくれたことに心から感謝した。生きているうちに、18日の面会の時に言えなかったこれまでの感謝等々を伝えることが出来、またそれに応答するような父の声も聞こえて、(丁度春の彼岸だったので)母が私の到着まで持たせてくれたと思った。
また、少し容態が安定したので母が追い返してくれたとも思えた。
しかし、束の間の小康状態で、夜に入ると一気に悪化していった。
父が亡くなる少し前から、死期の兆候や推移について調べていたので、酸素濃度が徐々に低下し始めた時、別れのときが来たと感じた。
「ありがとう、がんばったね、大好き」を伝えられる最後の瞬間であったので、それを伝え、母が亡くなって以降一人で育ててれたこと、父が私の父でいてくれたこと、私には過分な父親であったこと、向こうで(生)母と出会って、また来世も父と母の子としていたいことを、薄目でこちらに向ける父に対して伝える。それらの言葉に対して、呼吸とは違った音で短く応答があったので、最後の会話になったのだと思う。
伝えきれた直後、酸素濃度が80%を切り、延命措置をしないことで合意していたので、そのまますぐに息を引き取った。享年61であった。



■追伸

思いや感情は伝えられる時に、生きている間にしか出来ないものだ。それを紛いなりにも私が出来たことは幸運だったのかもしれない。だが、一方でもう少し元気な時に、相手の反応が見れる時に出来なかったことは、悔いが残り続ける……
また、葬儀等、父の死をほとんど面倒事としか感じ取れなかったこと、そして何よりも、近い将来自分を無条件で愛してくれる存在が一人もいなくなってしまう時が確実に来る現実に絶望し、父の死という重大な出来事を通してもなお、独善的で自分本位な考えしか持たない、人間になれなかったことに気がついた。

私は、この先人間になれるのだろうか。そして、誰か愛し、愛される存在になれるのだろうか。
他者の存在を否定し続けた独我論者の末路として、当然の帰結なのかもしれない。
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posted by ふおん at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 記事

2024年09月13日

0と1のあいだで

30年ほど生きている間に、勘違いなどで誰かを好きになることは幾度とあった。しかし、例外なく失敗か大失敗かで、ことごとくうまく行っていない。
清潔感とか人間性だとか、そういったものが備わっていないのも理由の一つなのだろうけれども、それ以前に恋愛関係について(あるいは人間関係全般についても)0か1か、そのどちらかしか存在しないと考えていたのが問題だったのではないか、と思うようになった。何故だか知らないが告白が成功して1(交際関係)になり、そこからに二人の仲が深まっていく、そのようなものだと本気で考えていた。

 ところが最近、同僚女性である大板屋名月さん(仮名)へのアプローチもどきを続けているうちに、ほとんど接点がなかったものが業務上の理由ではあるが定期的に会話をするようになり、冗談を言って笑ってくれたり、私の表情も柔らかくなったり、業務の内容だけではなくプライベートな話題についても会話の中に入ってきたり、物理的な距離が近くなったりと、1の状態ではないが、必ずしも0の状態でもないだろうと言えるような、0と1のあいだのような状況にいることに気がついた。交際とは、0が0.01になりそこから1を目指していき、目指した結果として1になるものだという気づきがあった。

 学生時代に、なんでこんな簡単なことにさえ気が付かなかったのだろうかと思ったが、普通の人間は、社会に積極的に参加することを通して無意識的・経験則的にに習得しており、私はまだその経験値が足りていなかったのだと思う。30歳、社会人5年目に達しようやくその経験値に達し、薄らぼんやりとかもしれないが感じ取れるようになったのだろう。

 大板屋名月さんは月のような存在で、見ている分には美しくきれいな方だが、いざ手を伸ばしても空を掴むだけで届かない、はるか遠くにいるような存在である。だけども、手を伸ばしてみない限り絶対に届かない。
 仕事を通じて信頼を築き上げて、今以上に距離を縮めた時、伸ばした手が彼女に届く日がいつかくるのだろうか。



■追伸

 毎週の定期的な打ち合わせが待ち遠しくて仕方がない。彼女の迷惑にならない範囲で手を伸ばすことを続けていきたい。
posted by ふおん at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 感想・随筆

2024年09月09日

バイクの購入のメモ書き

自二輪の免許を取得し、さっそく週末にバイク屋を巡る。
現在検討しているのは以下の3車種。


CB223S(中古)

いいところ……見た目がドタイプ。空冷単気筒の音がカブっぽくて好き。足の裏がべったりつきそうなほど足つきが良い。タンデムに良さそう。
懸念点……少々古い(15年ほど前)。見たバイクは転倒による傷が多く、エンジンへのダメージが入っていないか心配になった。
費用……50万ぐらい。


XSR155(中古)
いいところ……見た目がCB223Sの次に好き。新しい。
懸念点……輸入車なので整備が必要になった際の部品供給が気になる。足つきが若干悪いかも。155ccしかないので高速は絶望的。
費用……50万ぐらい。


CB250R(新車or中古車)
いいところ……250cc。新しい。空冷単気筒の音が良い。
懸念点……3つの中で一番高い。ネイキッド風な見た目だけど、そこまで好きではない。足つきが若干悪い。
費用……新車で色々(メンテパック、ドラレコ、ETCなど)つけて80-90万ぐらい。中古だと60万を少し超える程度か。


さあどうしようか、というところ。
来春まで保留でも全然良い。



■追伸

車の修理さえなければ……orz
posted by ふおん at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 忘備録