2018年09月24日

「真昼のイルミネーション」に思うこと。

「真昼のイルミネーション」とは、2018年4月に発売された、武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話』(以下、『ホントの話』)宝島社に収録されている、1つの話である。本全体から言えば、300ページ近くあるうちのたった14ページを占める小さなお話に過ぎないのかもしれない。
しかし、そのたった14ページにとても強いメッセージが込められている、むしろそのメッセージのために、この「真昼のイルミネーション」というお話が、あたかも作品周辺で起きている「出来事」に対応するかのように、追加的に創られたのではないか、という気がしてならない。





個別具体的に書くということは差し控えるが、今年・2018年の年初にある「出来事」があった。その一件を見知った後、3ヶ月後に『ホントの話』が発売された。
当初は、直近に「出来事」があったために、「イルミネーション」に書いてある文章を深く読みすぎているきらいがあるのではないか、とも思えた。
しかしながら、今月・9月に提起された「出来事」を通じて、「イルミネーション」に対する疑いが確信に変わりつつある。

2018年内で確認されている「出来事」なるものは、少なくとも2件確認し、回覧されているものと思うが、少なくともこの2件は発信者がいて、かつそれが受信できたから表面上に現れて確認できているのに過ぎないのではないか。表面には現れていないが、外部に表出する発信者がいないがために、内部で留まり続けているものがいくつもあるのではないか。地域に居住していない、外部の人間が知りえないだけで、地域の人間の間にだけ共有されているようなものもあるのではないか。そういった疑念がふつふつと湧いて出てくる。





p.144からの、「電飾のくだり」、これは、電飾が光る=作品のアニメ化のように、暗にアニメ化前後の作品状況を言い表しているのではないだろうか。
作品に対しても、電飾が光らずとも分かる人に読まれひっそりと評価されていれば良くて、電飾が光ったことによって外野からそれをぶっ壊すような人間が現れたこと、自信の作品によって電飾(ここでは作品だけではなく地元宇治も)が壊されている(壊されそうになっている)ことまでは思いもしていなかった、そのように感じ取れて仕方がない。
だからこそ、あの話を小話の最後に入れた、メッセージとして伝えたかったのではないかと考えるに至った。

「自分の大切なもんが、価値を知らん誰かに壊されるんちゃうか」(p.145 武田)





書いたことは全くの見当違いかもしれないし、そもそも書いている自分自身が価値を知らない人間なのかもしれない。しかしながら、「出来事」と「真昼のイルミネーション」は対応しているのではないか、作品に込められたメッセージはなにか、何故この話を書くに至ったのか、至るまでに何があったのか、そしてどこまで「出来事」が聞き及んでいるのか、考えずにはいられないのである。



時として「とても美しいもの」を入手するために、しばしば何か犠牲になることがある。写真撮影に夢中になるばかりに、足元の花壇の花が踏み潰されることがその一例なのかもしれない。
しかし、(少なくとも)私が思う作品の風景=とても美しいものとは、足元にある花壇の花も含めた、空間全体であろうと思う。作中で”切って”出された一カットではなく、その空間そのものなのだ。庭園のようなものなのだ。
私はどうあがいても作品には登場し得ぬ存在である。作品の登場人物ではないし、創作者でもないからである。しかし、今現実に起こっていることはその作品ではないにしろ、空間に、庭園の中に”自分を”入りこもうとしている行為他ならない。果たして空間に、庭園に、自分は存在していたのであろうか。

作品に対する立ち位置を、今一度確認したいものである。



■参考資料

・武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話』宝島社 2018

posted by ふおん at 02:43| Comment(0) | 記事
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