2018年10月31日

『青春ブタ野郎』と個人的な哲学・世界観。

<アニメ1話>

<原作小説>

要約すると面白いから観て、読んでというお話であるのだが、多分明後日の方向に話が進むと思うので、最初に書いておくことにした。
なお、書いている人間は別に哲学を専攻しているわけでも無いため、講学上の用語とは違う、また考え方として破綻している部分もあるかもしれないことを予め断っておく。



2018年10月から始まった、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』。これが存外面白く、おそらくアニメを見てきた10数年という大して長くもない視聴歴の中でも、5本の指に入る(※1)であろうと信じてやまない作品である。

※1
涼宮ハルヒ、電脳コイル、など

何が、それほど面白くさせているのかといえば、作品の中で問題とされている「(桜島麻衣に対する)認識」である。
作中では、思春期症候群により桜島麻衣が周囲の人間から認識されなくなり、最後の一人・梓川咲太からも認識されなくなり、そして存在が「無かった」ことにされる。「桜島麻衣」という存在そのものが彼女以外からの頭の中から消えて、その存在を認識出来ないという状況に陥るのである。

存在を認識出来ないものは、果たして存在していると言えるのか。


13歳の時に、夜な夜な死について考えて、死んだらこの世界はどうなるのか、という答えが出しようのないことを思い巡らせていたが、その答えになるようなものが『涼宮ハルヒの憂鬱』で提示された。人間原理の考え方である。

「人間が初めて観測して存在を知り得る」

この考え方を「私」に応用して、
「この世界が存在するのは、世界を観測し得る私が存在しているから。私と世界は同一である。私の存在が生まれる前、そして死んだ後の世界・時間・空間の存在は信じられない。」
という独我論的な世界観を持つようになり、今日に至るまでこの考え方、私個人の哲学として続いている。


ある時、この考え方について質問したところ、その世界観はごく普通な考え方であるとされたが、
「自分が経験していないものを信じないのであれば、世の中の殆どが信じないものになる。「私」の周りにある、存在を認めているものは、「私」と関係の無い固有の時間を持っており、「私」を含めてすべて歴史的なものである。そして、その歴史は「実在している」と検証する過程において現在のバイアスを受けている。「私」という存在も、過去の「私」の存在を証明するのは現在の「私」であるが、それを証明する証拠が(「私」以外に)存在しなければどうやって「私」という存在を証明できるのか。」
との返答を受けた。


回答を貰った当時、「固有の時間(歴史)」概念というものが理解出来なかったのであるが、『青春ブタ野郎』においてそれが何であるのか少し掴んだような気がする。


物は、観測者からのその認識の有無に関係なく存在しているのであり、そして現に存在しているという連続がその物の固有の時間(歴史)を作り出し、その集合(固有の時間の接触し干渉し合うことによって)が世界(の時間)を創造しているのである。

桜島麻衣は思春期症候群により、全世界の人間の認識から消え存在を確認し得ない、存在しないものとなった。しかし、認識の有無に関係なく、桜島麻衣という事物は存在しており、固有の時間を持っている。桜島麻衣以外の人類が共有している世界の時間から切り離されて、孤立した、孤独の存在となっただけで、存在はしている。存在を認識出来ないというのは、世界の時間と固有の時間を繋ぎ止めるものが無くなっただけなのである。

ただ、作品では梓川咲太が桜島麻衣という存在を生徒(人類)に「認識」させることによって、桜島麻衣を共有されている世界に戻した訳であるのだが、認識の有無に関わらず桜島麻衣という存在そのものは、孤独の観測者として世界に存在していた。



少し、思考がめちゃくちゃになってきたので、今はこれぐらいにしておくが、「固有の時間」概念が私個人の哲学に導入されたことで、世界観がかなり広くなったような気がする。今少しばかり全能感のようなものすら感じる。世界の真理というものがあるのかは知らないが、その断片を知り得た感もある。



『青春ブタ野郎』という作品との出会いは、私の人生において極めて衝撃的な事件であった。
よって、この作品を無条件に勧める理由である。



■追伸

この考えを徹底させるにはしっかりと哲学を体系的に学ぶ必要があるように思う。
来年度はゼミ以外時間が取れる予定であるので、受けて見よう。
posted by ふおん at 02:11| Comment(0) | 記事
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