「私はもうここから消える」(鴨志田一. 2015)
双葉理央の「消える」という選択に関する小ノート。
鵠沼海岸で撮った、梓川、国見、双葉B(「偽物」)の3人の写真を観て、「本物」こと双葉Aは、双葉Bが双葉A以上に、上手に「双葉理央」をしていることを感じ、「消える」ことを選択し、峰ヶ原高校へと向かった。
「消える」ことの具体的な行動は書かれてはいないが、
「この世界に、双葉理央はふたりもいらない」、
「私がいなくなれば、全部解決する」、
と続いて発言しており、「消える」とは私(双葉A)が世界からいなくなる、双葉Aの存在が世界から消滅すること、つまりは一個体としての死を選択することである。
双葉Aが「消える」ことは、双葉Aによれば、「双葉理央」にとって合理的な選択(意思決定)であると考えている。双葉Aが、彼女自身の合理的な判断に基づき「消える」ものであるから、この「消える」こととは自死(自殺)を選択する他ならない。
双葉Aは、自死を選択することによって、残った双葉Bが「双葉理央」として、上手く生きていく、存続していくことを考えたのである。
しかし、双葉Bという存在は、もともとは「双葉理央」を構成する一部分である。「誰かにかまって欲しい双葉」と「そのための手段が許せない双葉」が分離して、双葉Bと双葉Aがそれぞれ生じたのである。
構成していた一部分、対となる存在が「消えた」後も、「双葉理央」が存在しているか疑問が残る。
双葉Aは「消える」ことを選択するにあたって、双葉Bの存在を挙げている。
双葉Aにとって双葉Bが「偽物」であるのに、「偽物」が双葉A、あるいは『双葉理央』にとってある種理想的な存在であり、理想的でない双葉Aは『双葉理央』にとって不要な存在、『双葉理央』にとって「余ったピース」である双葉Aを捨てることで、理想的な『双葉理央』を完成させようとしている。
双葉Bの存在が、双葉Aに「消える」こと、自死を選択することを”選ばさせている”とすれば、双葉Bによる双葉Aに対する殺害、「他殺」とも考えられないだろうか。
双葉Aは「消える」ことを選んだ。
外観上は双葉Aが「自死」を選択した他ならないが、内情としては双葉B(の存在)が双葉Aに対して自死を”選択させた”、「他殺」なのでもある。
「自殺なう」としつつ双葉Bが双葉Aを殺害している、下記リンクの画像通りとなろう。
(※R-18G)
話しでは「消える」ことは実行されなかったが、選択されたことは確実である。
双葉Aと双葉Bを対比し、整理しつつ、「消える」という選択についてこれから掘り下げていければと思う。
■参考文献
・鴨志田一.2015 鴨志田一『青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない』 KADOKAWA
・ガラスムーン『highlander』2018