2019年02月02日

響け!ユーフォニアム等に登場する「特別」に関する小ノート


3月10日のサンフェス7に出す予定の本の中に、「『特別』に関する考察」が今の所予定されている。
その記事に関する小ノート(その2)。



「特別」と対を成す「普通」あるいは「同質」?
黄前久美子が北宇治に来たのは、「知っている人がいない高校に行って、新しく最初から(スタートしたかった)。」である。



舞台である高校の異常さ?
高校に入るにあたっては入試によって、偏差値に輪切りにされたその1つの学校に入学することになるし、入学後も絶えず定期考査や模試の点数で学年、学級で順位づけられ、部活においても、それが数値や技術で現せられる程、その中で序列が生まれる。(意識をしていまう)
そしてその高校は、入試で偏差値で輪切りにされた学力が似通った、ほぼ同じ出身地で、さらに年齢を同じくする非常に同質な人間が集まったものであり、学校側が順位付けしなくても、生徒側においても順位付けしやすい環境にある。
順位が高い、最高順位にある人間は、「特別」な存在であると認めやすい環境であり、それ故にその立場に憧れ、羨望し、「特別になりたい」という欲求に繋がるのだと思う。


「同質」の対概念としての「異質」は「特別」(時として「異常」や「変」)を含んだものである。
彼女が頭が良いから「特別」なのではなく、その人が私と違って「頭がいい」という「異質な存在(個性と表現しても良いのかもしれない)」であるからであり、また彼女の演奏が上手いから特別なのではなく、「演奏が上手い」という私と異なる個性があるからである。

対して「普通」の対概念としての「特別」は、あくまでも比較しうる数値や技術による相対的な評価によるものであり、そこに絶対性はない。そこに参加する人間が入退出して社会が変化すれば、たちまちに「特別」ではなくなる人間も出てくる。高校に上がった時の斎藤葵のように。



北宇治高校は現状コンクールで金を絶対に取る、という対普通としての「特別」と、音楽という対同質としての「特別」の2つが混在している。
どちらが「正しい」のかはわからないが、今年発刊されるユーフォの新刊は、これを巡る争いが展開されるのではないかと思う。



■追伸

舞台の高校が同質の集まりであるというのは、鴨志田一『青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない』KADOKAWA,2015,pp.70-72にかけての桜島麻衣の言う「学校は特殊」を参考にした。
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2018年11月26日

双葉理央の「消える(=自死/自殺)」という選択に関する小ノート

「私はもうここから消える」(鴨志田一. 2015)
双葉理央の「消える」という選択に関する小ノート。




鵠沼海岸で撮った、梓川、国見、双葉B(「偽物」)の3人の写真を観て、「本物」こと双葉Aは、双葉Bが双葉A以上に、上手に「双葉理央」をしていることを感じ、「消える」ことを選択し、峰ヶ原高校へと向かった。

「消える」ことの具体的な行動は書かれてはいないが、
「この世界に、双葉理央はふたりもいらない」、
「私がいなくなれば、全部解決する」、
と続いて発言しており、「消える」とは私(双葉A)が世界からいなくなる、双葉Aの存在が世界から消滅すること、つまりは一個体としての死を選択することである。

双葉Aが「消える」ことは、双葉Aによれば、「双葉理央」にとって合理的な選択(意思決定)であると考えている。双葉Aが、彼女自身の合理的な判断に基づき「消える」ものであるから、この「消える」こととは自死(自殺)を選択する他ならない。

双葉Aは、自死を選択することによって、残った双葉Bが「双葉理央」として、上手く生きていく、存続していくことを考えたのである。

しかし、双葉Bという存在は、もともとは「双葉理央」を構成する一部分である。「誰かにかまって欲しい双葉」と「そのための手段が許せない双葉」が分離して、双葉Bと双葉Aがそれぞれ生じたのである。
構成していた一部分、対となる存在が「消えた」後も、「双葉理央」が存在しているか疑問が残る。


双葉Aは「消える」ことを選択するにあたって、双葉Bの存在を挙げている。
双葉Aにとって双葉Bが「偽物」であるのに、「偽物」が双葉A、あるいは『双葉理央』にとってある種理想的な存在であり、理想的でない双葉Aは『双葉理央』にとって不要な存在、『双葉理央』にとって「余ったピース」である双葉Aを捨てることで、理想的な『双葉理央』を完成させようとしている。
双葉Bの存在が、双葉Aに「消える」こと、自死を選択することを”選ばさせている”とすれば、双葉Bによる双葉Aに対する殺害、「他殺」とも考えられないだろうか。



双葉Aは「消える」ことを選んだ。
外観上は双葉Aが「自死」を選択した他ならないが、内情としては双葉B(の存在)が双葉Aに対して自死を”選択させた”、「他殺」なのでもある。

「自殺なう」としつつ双葉Bが双葉Aを殺害している、下記リンクの画像通りとなろう。
(※R-18G)


話しでは「消える」ことは実行されなかったが、選択されたことは確実である。
双葉Aと双葉Bを対比し、整理しつつ、「消える」という選択についてこれから掘り下げていければと思う。



■参考文献

・鴨志田一.2015 鴨志田一『青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない』 KADOKAWA 
・ガラスムーン『highlander』2018
posted by ふおん at 01:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 小ノート

2018年06月09日

『響け!ユーフォニアム』の「特別」という概念の小ノート

小説『響け!ユーフォニアム』シリーズに頻出する言葉である「特別」。その概念に関する小ノート。
いつか同人に出したい。

『響け!ユーフォニアム』は特別を巡るお話である。(と理解している)
ナンバーワン的な特別はその参加・所属するコミュニティや社会での客観的評価によって形成されるものである故に、そこでのみ通用するものであり、そこから一歩抜ければそうではなくなる。しかし、オンリーワン的な特別は個人の価値観により形成されるものであるので、個人との関係が続く限り、またその個人の価値観が変わらない限りは永続的である。
(価値の依存先が社会にあるか個人にあるか)

結論としては、ナンバーワン(客観的特別)よりもオンリーワン(主観的特別)が良いよね、というもの。

その最たる例としての『リズと青い鳥』。
鎧塚みぞれにとって傘木希美は主観的特別であるが、希美にとってみぞれは客観的特別であった。
その認識のギャップが2人の関係性を動揺させた。
(みぞれは希美の主観的な特別が欲しい(自分の「特別」を認証して欲しい)。希美はそれを知らずに、みぞれを客観的な特別と捉え続けており、それをコンプレックスに感じ、みぞれからの言葉もバイアスが掛かっている(捻じ曲げられている)。)



・把握方法による類型
客観的特別:データ(数値・順位付け出来る・される能力)による理解・把握。
主観的特別:個人の価値観(感情など)による理解・把握。

 

客観的

特別でない

特別である

主観的

特別でない

普通

(客観的に)特別

特別である

(主観的に)特別

超特別?

<表:特別の分類>

主観的、客観的のいずれかを満たせば特別であるが、その両方を満たす特別とは何か?
客観的特別になることは、イコールとして主観的特別になりうるのか。(その逆もありえるのか?)
=ほぼ不可能。社会における特別な存在が、自分にとって特別たり得ない。そこに価値を置いていないから。
(『ヒミツの話』での大学卒業後を想像した小笠原晴香が好例だろう)

・状態による類型
「である」:現在
田中あすか…高校・吹部という社会における評価(学力、演奏力)による、客観的特別
「なる」:未来(将来)?
高坂麗奈 「称賛されたい」客観的特別?
(「だった」:過去)
斉藤葵…中学校時代の「勉強も部活もできる」客観的特別。しかし、高校では(客観的な)特別にはなれなかった。通用していた社会からの退出と、参加した新しい社会における別の特別な存在(田中あすか)の出現による。



(客観的な)特別になることは、本当に幸せなの? 称賛を浴びることは良いことには間違いないにせよ、幸福であるの?
自尊心を満たすだけの、空虚なものではないの?



これらの問に対して明確な答えを出すことが出来るのだろうか。



■追伸

C93あたりから延々考えていたもの。特別って何?
多分誰かがやっているだろうし、n番煎じであることは想像に容易いが、自分の中での整理を含めて、『響け!』中の「特別」について書いていきたい。
夏コミにサークル参加してれば出そうかな思っていたが、今夏は参加しないのでいつか出しに行きたい。
posted by ふおん at 23:48| Comment(0) | 小ノート