2025年03月19日

ふおんの資格受験記その9「QC検定2級」

16日、神戸市外国語大学にて、QC(品質管理)検定の2級を受験した。

18日には基準回答が公開され、自己採点の結果、合計で80/101(79.2%)、手法44/51(86%)、実践36/50(72%)と合格基準(合計で概ね70%以上の得点かつ、手法・実践それぞれで50%以上の得点)を満たした結果となった。
正式な合格発表は4月23日10時の見込み。



受験のきっかけ
昨年3月の試験でQC検定3級に合格しており、ステップアップとして一つ上の2級を受けた。また、統計検定2級も受験を予定しており、そのスモールステップとして受けた側面もある。
今回も会社の要請で受けたわけではない。


受験の感想
過去問をやっていてもそうだったが、結構時間がかつかつだった。手法50分、実践25分で終わらせて、15分ぐらいは見直しの時間を作ろうとしていたが、手法で55分ほど要し、実践も30分かかってしまい、マークシートの確認と、問題用紙に書いた(丸をつけた)答えとマークシートに塗りつぶした答えが合っているか、確認するぐらいしか時間が残っていなかった。

問1が過去問で見かけなかった形式で少し面食らったが、内容的にはそこまで難しくなく、冷静になって解いていったら答えまでたどり着けた。(ただし全部正解しているわけではない)

問2以降も自分がやった過去問(33〜38回)に対して比較的簡単な(少なくとも難しくはない)問題で、この部分はあまり引っかからず、スイスイと解けていたと思う。苦手な分野である二元配置実験が出てこなかったことなどがあげられる。しかし、符号検定はテキストでの解説や自分が解いた範囲での過去問での出題もなく、試験が初めてでここで何問か落としてしまった。これに関しては仕方がない。


学習に使用した書籍
株式会社グローバルテクノ[編]『QC検定2級 一発合格! 最強テキスト&問題集』オーム社,2024.
仁科健[監修・委員長],QC検定過去問題解説委員会[著]『過去問で学ぶQC検定2級 2025年版』日本規格協会,2024.

テキストの方を2週間で無理やり終わらせて、残り2週間で過去問をひたすらやった。手法だけで1周した後、90分の時間制限を設けて、手法・実践を通して1回ずつこなした。

一番最初に33回の手法を解いた時、50%しか取れずかなり絶望的な状況であったが、手法を根気強く繰り返しやることで最終的には8割で安定し、本番でも86%の正答率であった。実践がダメダメだったので、当初考えていた手法6割、実践8-9割での合格を目指していたら、完全に計画が破綻していたと思う。手法でも8割取るという強い気持ちが功を奏した。

オーム社のテキストはとても理解しやすかった。手法で点が取れるようになったのは間違いなくこのテキストのおかげ。タイトルに偽りはなかったと思う。そこそこ誤記もあるけど水に流せる。内容的にはボリューミーなので人によっては受け付けないかもしれないが、2級の内容を学習するに当たって漏れは少ないのかなと思う。実践は別途日本規格協会が出している『教科書』や、その分野の本を買うともう少し理解が深まるのかもしれない。


学習時間
ビジネス・キャリア検定を受験した翌日から4週間。時間にすると60時間ぐらい。
ただし、この時間はQC2級を受験するにあたって学習(テキスト、過去問)に費やした時間のみで、関連する統計3級の学習には80時間程度、昨年受けたQC3級の学習に15時間程度、内容(信頼性工学)が一部被っていたビジネス・キャリア検定の3級経営情報システムの20時間、また昨年10月ごろにも統計2級の取得を目指して、統計のテキストを読み進めていた(20-30時間程度)ので、それらを合わせると200時間程度になるだろうか。

個人的な感想としては、いきなり2級に挑むとか、統計をあまり学習せずに3級から2級に挑むのはかなりしんどいと思う。受験にあたっては、QC3級を取ってから高校数学を復習しながら統計3級を取り、統計2級まではいかないまでも、「準2級」程度の学習をしてから挑むと割と楽に取れるのではないかなと思う。
少なくとも私は合格率が20%台の試験には感じなかった。簡単ではないけど、ネット上で書かれているほど難しくもないかな。まぁ、試験が取れた(取れそうだ)から言えることなのかもしれないけれども。



■追伸

QC検定も0次試験があるのか、結構来ていなかったように思う。自分の受けた教室では15%ぐらいが来ていなかったのではないだろうか。2級が午前の試験だったのも影響しているのかもしれないが。

大学受験を除けば、難易度が比較的高め(30%以下)の試験に初めて合格しそうである。応用情報もこの程度の合格率なので、一足飛びで挑まず順に学習を進めていけば(周りを固めていけば)受かる試験なのかもしれない、と気持ちが楽になった。

さあ次は4月30日の広川卯月の誕生日までに統計検定2級を頑張って取ろう。
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2025年02月20日

ふおんの資格受験記その8「2024年度後期ビジネス・キャリア検定受験」

16日、神戸市の兵庫県中央労働センターにて、ビジネス・キャリア検定を受験した。
午前がBASIC級生産管理を、午後は3級経営情報システムをそれぞれ受験した。

18日に正解表が公開され、自己採点の結果、BASIC級生産管理は82.8点(58/70)、3級経営情報システムは77.5点(31/40)で、それぞれ合格基準となる正答水準(BASIC級生産管理が70%、3級経営情報システムが60%)に達していた。
合格発表は3月14日の予定。

以下、BASIC級生産管理と3級経営情報システムに分けて書く。



BASIC級生産管理
受験のきっかけ
BASIC級生産管理にについては、情シスとして生産管理システムに触れる機会がある、また生産管理の方から相談を受ける機会もあったため業務理解のために知りたかった、というのがあった。


受験の感想
試験は正誤式で試験時間は60分。しかし、20分もかからず解き終えて、マークシートに写し、退室可能になる時刻(開始後30分)まで割と暇だった。
出題分野は業務の範囲ではないが、範囲の一部である品質管理分野に関しては、昨年にQC3級を取得していたので対策が不要だった。また大学で学んだ分野(環境法)かつ高校で得意分野であった政治・経済、現代社会で出てくる分野(公害対策基本法、環境基本法、公害)だったのでここも無対策で得点源になった。
無事に合格水準に達したから言えているだけかもしれないが、あまり達成感がなく、BASIC級よりも3級生産管理オペレーションぐらいが丁度良かったかもしれない。

受験している方については、専門学校生かあるいは就職直前の学生が受けにきているのか、20代前半ぐらいの方が多かった印象。受験統計をみている限りではそうでもないのだけど。


学習に使用した書籍、学習時間
岡野弘典『図解入門ビジネス 生産管理の基礎知識 ビジネス・キャリア検定試験BASIC級生産管理副読本』秀和システム,2023.
中央職業能力開発協会[編]『生産管理 BASIC級 (ビジネス・キャリア検定試験標準テキスト) 』社会保険研究所,2016.
HPに掲載しているビジネス・キャリア検定の過去問2022年、2023年。
※直近2年分しか公開していない。

勉強を始めたばかりの頃は『標準テキスト』を最初の方から読んでいたが、時間も無くなってきたので途中から『副読本』をメインの参考書として学習を進めた。
『副読本』を一周した後で過去問に取り組み、間違えた問題や正解していてもまぐれで当たった問題については、該当する部分を『標準テキスト』で読んで理解した。
『標準テキスト』や『副読本』の章末問題を2周、過去問についても2年分を2回。
総学習時間は15時間程度だろうか。主に週末に勉強した。製造業で働いている人間であれば2-3週間あれば十分に受かると思う。



3級経営情報システム
受験のきっかけ
3級経営情報システムについては、プロジェクト系の比重が高めの内容であったのでこの先の応用情報対策として、また上司・先輩から下請けの形で仕事を受けるのではなく、自分で設計から開発まで担う案件が始まったため、それの勉強という面で始めた。


試験の感想
試験は4択40問で時間は110分。しかし、絶対にそんなに必要ない。35分程度で解き終えて即退室した。IPAのITパスポートですら100問で120分なのに、半分以下の問題数で110分も時間を取っているのがよく分からない。問題もアルゴリズムみたいなものもないのに……

ただし、それはITパスポート、基本情報、情報セキュリティマネジメントを取得している状態で受験したから言えたことかもしれない。

勉強を始めて、最初に過去問題を解いた時、合格水準ギリギリの6割前半程度しか取れなかった。出題分野もそうだが、問題の出し方(表現?)がIPAの試験と少し違う、少し厄介なものだったのでそれに対応する必要があった。「最も不適切」語句が付く問題については、正当は一意ではないのではないかと真剣に思う。
あと、標準テキストに含まれない内容もそこそこ出てきた。


学習に使用した書籍、学習時間
中央職業能力開発協会[編]『経営情報システム3級 (ビジネス・キャリア検定試験標準テキスト)』社会保険研究所,2018.
ビジネス・キャリア検定試験研究会『経営情報システム(3級) (ビジネス・キャリアレジスタードマーク検定試験 過去問題集(解説付き))』雇用問題研究会,2020.
伊藤ら『IT Text 情報システムの分析と設計』オーム社,2022.

基本情報持っているからただ貰いで行けるやろう、と高をくくっていたので勉強を始めたのは試験2週間前。
『過去問題集』を一周し、間違えた箇所や疑問箇所について、解説や当該部分の『標準テキスト』を読み返す、というのを繰り返した。『IT Text』はプロジェクトの進め方の部分だけ読んだ。
『過去問題集』を2周、HPに掲載している過去問題(4回分)を1回ずつ解いた。
総学習時間としては20時間程度。これも主に週末に勉強した。
基本情報を持っていれば多分ノー勉でもギリギリで受かると思う。過去問を解いて、出題形式に慣れたら少し余裕を持って受かると思う。
でも試験自体は合格率50-55%前後の試験ではある。
IPA試験を受けている人はあまり受けないのだろうか。受験者数も毎回250人前後、年間で500人ぐらいだし……



追伸
IPAの秋季試験で応用情報を受けるつもりなので、2025年10月試験はどうしようか考えているが、3級生産管理オペレーションや、新年度に現在の情報化企画と情報化活用の統合が予定されており、新しくなる2級経営情報システムは今後受けてみたいと思う。
当初の目的はそこそこ達成できたのではなかろうか。
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2024年09月22日

138億光年の孤独。

秋の彼岸に入ったので、今年の3月に亡くなった父の闘病生活、また最期の日の出来事を忘れないために書き記す。



父が悪性リンパ腫と診断されたのは亡くなる丁度2年前のことであった。
会社から帰ろうとしていた際に父から電話があり、悪性リンパ腫との話を聞く。この時はまだステージの話は聞いていなかったが、詳しい診断が数日後に出てステージ4と知らされる。とても動揺していたのを思い出す。
しかし、当の本人は「大丈夫やわいや」と表面上は気にしていない素振りをみせていたが、今思うと生母が同じ血液のガン(白血病)で亡くなっていたため、心配をかけまいと虚勢を張っていただけだったかもしれない。この父の他人に、親しい人に詳しい病状を伝えず元気に振る舞っていたのは、亡くなる直前まで続けており、詳しく病状を聞かなかった私も悪かったのであろうが、急変する今年の3月まで病状の深刻さなど本当にわからなかった。

2022年の4〜10月にかけて、1週間入院し抗がん剤の投与、3週間自宅で過ごすを6セット繰り返し、継母によれば一時がんが消えていていたとのこと。その頃に父からも電話があり、治療がうまく言っていたことを聞いていたので、心から安堵し、再発がなければ良いと思っていた。

しかし、早くも同年11月に、発熱が続いたため病院に行くと、検査で再発が発覚。骨盤全体に病巣が広がっていたようである。治療によって再び入退院を繰り返す日々が始まる。
入院中は趣味の本や好きなアーティストのDVDを自室で見ており、亡くなった後で看護婦の方から聞かされたが、「息子が買ってくれた」と喜びながら話していたそうである。

抗がん剤の投与によって進行はある程度食い止められていたようであるが、副作用によって手足の痺れが酷くなり、2023年の12月には歩行器なしでは自力での歩行が困難になり車を運転できなくなっていたことを後に聞く。
その少し前の8月に出会った時はそんな症状はなく、自分で車を運転していたので、秋ごろから症状が酷くなってきたのだと思う。

同年12月に最後の入院生活に入る。時期的に(恐らく)入院直前だったと思うが、父から電話があり、今まで以上に地元に戻ってきて欲しい内容の電話を受けていた。兵庫に来て依頼、時たま電話越しに地元に戻る気はないのかと話があったので、またその話程度に思っていたが、いつもより強い口調だったので、少し気がかりではあった。しかし、詳しい病状や症状についてはこの時点になっても本人から知らされていなかったので、父が自分の将来を見据えて発言していたとは一つも気づかなかった。

2024年1月、元日に大きな地震発生。状況を知るべくすぐに父に電話をかけたが、そこまで弱っている声ではなかった。
同年1月より、使用していた抗がん剤の副作用であるしびれが酷いため、新薬による治療を始める。母から聞いた話では、父は新薬に対して希望を抱いていた模様である。しかし、新薬を使用し始めてから1ヶ月が経った2月に、病状が良くならない、むしろ悪化している現状に対して「いかさま」と母に不満をぶつけていた。2月の終わりごろには白血球週と血小板数がほぼ0になる。

そんなことを知らずに1月と2月に複数回電話をしたが、そのうちの1回、1月28日の電話だったとは思うが、その時に「もっと家のことを心配しろ」と怒られたのを覚えている。父は、もう先が見えていたのかもしれない。
2月の終わりに、父からではなくほとんど連絡することがなかった母から電話。3月1日にお見舞いに行くことを提案される。

3月1日、父の入院している病院に行く。キーパーソン(母)以外とは面会は出来なかったため、直接会って会話は出来なかったが、動画をお互いに撮ってやり取りは行えた。しかし、相当弱っている姿、またまともに発語出来ない姿を見て、ようやく父が危ない状況なのではないかと感じた。同時に、この近い将来に起こ得る出来事に対して、自分の心配事ばかりを感じる様になった。

3月に入ってから急速に父の病状が悪化。肝臓と腎臓の数値が悪化し、また会話も難しくなる。体調がいい日は好きなジュースを飲みプリンを食べる事もでき、電話(会話)も出来たようであるが、自分が面会に行った日のような酷い日は会話がままならなかった。
3月の最初の方に「まだ生きたい」、「(姉の子である)孫と会いたい」と母に漏らす。また、生前の感謝を伝えるメッセージを書き残し、それを自身の葬儀の時に、参列者に渡すように母に伝えていた。

3月の中頃に母から「父はもうだめかもしれない、キーパーソン以外の方とも面会が出来る様になった」と連絡が入り、18日に面会に行く。父の死、それも差し迫った死を前にして、何を話せば良いのか、何が話せるのか、考えながら病院に向かう。
しかし、残念ながら会話することは叶わず、こちらからの呼びかけに短い応答がある程度であった。しかし、元気な時(23年12月か翌年1月?)に言われていたこと(任されていたこと)はやり遂げる、と伝え、父からも応答があったことは覚えている。
短い面会の後、母や病院関係者から父たっての希望で自宅に帰還したい(最期を自宅で迎えたい)ので、退院を予定していることを聞かされ、同意し一旦帰兵する。

19日、残業をしていると母から「病院から危篤の連絡がきた」との電話が入り、急いで石川に向かう。5、6時間はかかるのでもしかしたら死に目に会えないかもしれないことが一瞬頭をよぎったが「生きている父に会いに行く」と決心し、20日の午前1時過ぎに病院に到着。
以下、亡くなるまでの父の容態を書き記す。

3月20日 1時30分ごろ 150〜160回/分程度。下顎を動かして、「ぜいぜい」といびきをかくような、嘶くような呼吸(死前喘鳴)が見られる。酸素濃度は98%前後、呼吸回数は20〜30回/分。
「お父さん」との呼びかけに対し、呼吸音とは違う比較的短い応答が返ってくる。目は数回開いて、呼び掛けた方(こちら)を伺うような仕草を見せる。
3月20日 3時過ぎ 心拍数が100前後に低下。酸素濃度98%前後、呼吸回数は20〜30回/分。深い呼吸が繰り返される。
3月20日 〜10時 3時過ぎごろからの比較的安定した状態が継続。
3月20日 10時頃 黒色の分泌物を嘔吐。シーツ等が黒くなる。心拍数が150前後に増加。
3月20日 11〜16時 心拍数が再び上昇。120以下に落ち着くこともあったが、150〜160程度で推移。酸素濃度は100%付近を維持。呼吸が乱れ始め、回数も40回前後と増える。いびきのような音を伴う呼吸は発声が大きくなり、ヒューヒューとした音を伴う呼吸、寝息をたてるような静かな呼吸、の3パターンが繰り返されるようになる。血圧は低いままだが、計測は可能であった。痛みによる苦痛の表情を時折みせる。
3月20日 20時ごろ 心拍数は140〜150程度。呼吸が浅くなり、呼吸音も小さくなる。呼吸回数も20〜30回に減少。3度ほど血圧の測定を行うも、いずれも計測不能。酸素濃度が90%を切り酸素マスクを着用し、95%程度まで戻る。
3月20日 20時30分ごろ (簡易)酸素マスク着用後、酸素濃度が95%で推移していたものの、徐々に低下し始める。こちらからの話しかけに対して「ああ」とも「うう」とも「おお」とも取れるごく短い応答と、目を薄く開けてこちらを見る。直後酸素濃度が80%台からさらに80%を切るに至り、リザーバー型の酸素マスクに換装する。
3月20日 20時40分ごろ 酸素濃度が低下の一途をたどる。心拍数も100以下に低下。
3月20日 20時50分ごろ 酸素濃度、呼吸回数が計測不可能になると程なくして心拍数も0に。
2024年3月20日 21時10分 永眠
(※最期の20分間は実際に時計を見ていたわけではなく、心拍が無くなった数分後に確認した時刻20時55分ごろから逆算して推測)


病院に到着した時、父が生きていてくれたことに心から感謝した。生きているうちに、18日の面会の時に言えなかったこれまでの感謝等々を伝えることが出来、またそれに応答するような父の声も聞こえて、(丁度春の彼岸だったので)母が私の到着まで持たせてくれたと思った。
また、少し容態が安定したので母が追い返してくれたとも思えた。
しかし、束の間の小康状態で、夜に入ると一気に悪化していった。
父が亡くなる少し前から、死期の兆候や推移について調べていたので、酸素濃度が徐々に低下し始めた時、別れのときが来たと感じた。
「ありがとう、がんばったね、大好き」を伝えられる最後の瞬間であったので、それを伝え、母が亡くなって以降一人で育ててれたこと、父が私の父でいてくれたこと、私には過分な父親であったこと、向こうで(生)母と出会って、また来世も父と母の子としていたいことを、薄目でこちらに向ける父に対して伝える。それらの言葉に対して、呼吸とは違った音で短く応答があったので、最後の会話になったのだと思う。
伝えきれた直後、酸素濃度が80%を切り、延命措置をしないことで合意していたので、そのまますぐに息を引き取った。享年61であった。



■追伸

思いや感情は伝えられる時に、生きている間にしか出来ないものだ。それを紛いなりにも私が出来たことは幸運だったのかもしれない。だが、一方でもう少し元気な時に、相手の反応が見れる時に出来なかったことは、悔いが残り続ける……
また、葬儀等、父の死をほとんど面倒事としか感じ取れなかったこと、そして何よりも、近い将来自分を無条件で愛してくれる存在が一人もいなくなってしまう時が確実に来る現実に絶望し、父の死という重大な出来事を通してもなお、独善的で自分本位な考えしか持たない、人間になれなかったことに気がついた。

私は、この先人間になれるのだろうか。そして、誰か愛し、愛される存在になれるのだろうか。
他者の存在を否定し続けた独我論者の末路として、当然の帰結なのかもしれない。
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posted by ふおん at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 記事