青春ブタ野郎のアニメが終わり、そして原作小説も(幾つかの掌編小説と円盤に付いていたものを除いて)読み終えたので、『青春ブタ野郎』についての私なりの感想を書いておきたい。
原作を見ていなかった当初、桜島麻衣の認識問題という話を見て、青春ブタ野郎は何か哲学的な内容を展開していくお話であると思っていたし、個人の哲学や世界観に影響を与えた作品であるという点で評価していた。
しかし、原作小説を手に取り、読み進めていくうちに、『青春ブタ野郎』に対する評価は、当初抱いていた哲学的な内容ということよりも、思春期症候群に直面した彼・彼女らの境遇に、大学へ不登校だった過去や現在の自分を重ねて(自己投影して)、共感しているからであるからだと感じるようになる。
大学での不登校の始まりは、『おでかけシスター』における広川卯月の発言(学校に馴染めず「最初は、一日だけサボるつもりだった」)通りであるし、不登校から脱出しようとして久しぶりに出席しても梓川かえでが感じたように他者からの向けられる(と思いこんでいる)視線への恐怖は大学から自分を遠ざける原因であったし、また双葉理央のような人格が別れないまでも頭の中に対立する2つの存在(不登校を肯定的(楽観的)に捉える自分と否定的(悲観的)に捉える自分)や、そうなっている自分への強い自己嫌悪は、思考にノイズをかけ、不登校が長期化する原因であった。
また、梓川咲太が母親を無視していたことも、(生母と死別した後に)父親と再婚した継母と上手くいっていない、少なくとも「母」と読んでいない(思ってすらいないかもしれない)と重なるなど、登場人物の境遇とかなりの部分において重なっており、それゆえに登場人物に自己投影して共感へと繋がっている。
しかし、もしそれが『青春ブタ野郎』という作品への評価へと繋がっているとすれば、心に傷を負う出来事や、精神を病んでしまった過去がある経験が、登場人物への自己投影・共感することにより作品への評価を生んでいるとすれば、むしろ作品への共感や感動がなかった方が、はるかに幸せなのではないかと思ってしまう自分がいる。
考えるだけ無駄であるのに、「経験」をした故に作品に共感した幸せと、作品には共感しなかったけど「経験」がない幸せを天秤にかけて、果たしてどちらが幸せなんだろうか、幸せだったのだろうかと考えてしまう。
だけれども、共感しない幸せの可能性について考える一方で、「なかったことにしたい」とまでは思わない。作品に対する共感もそうだが、今自分が持っている考え方だったり、気持ちの持ちようであったり、他者への接し方であったり、今の自分を構成しているのは過去の出来事、それに直面した自分がいたから他ならない。豊浜のどかの言うように、「もちろん、『あのとき、ああすればよかった』とか、『もっとできることあったかな』とか、後悔はする」ことはあるけれども、今の自分を完全に否定してまで、過去を無くしたいまで思わないし出来ない。しなくていい苦労も数多く経験しているが、今の他人への理解しようとする優しさを生み出しているのであれば、それで十分である。
『青春ブタ野郎』は、思春期の少年少女の葛藤を描いた作品である。主な対象は思春期真っ只中の中高生なのかもしれないが、モラトリアムをいつまでも継続している大学生や社会人にも非常に有用であると思う。
それは作品への共感というよりも、登場人物のメンタリティ(私であれば広川卯月や豊浜のどか)に学ぶという点である。彼・彼女らが自己の問題に対してどのような心の持ち方で、どのように折り合いを付けていこうとしているのか、そこを見るべきだろう。
私は『青春ブタ野郎』を見てこのように感じた。
■追伸
登場人物への自己投影以外にも、もちろん登場人物が魅力的であるからだったり、『青春ブタ野郎』を最初に見た(1、2巻を読み終えた)時点でのように、読み手の経験に関係なく作品として優れているから共感していることもある。
けれども、全て読み終えた時点ではそれが忘れるぐらいに自己投影している部分が大きく感じられた。
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