2019年01月09日

『青春ブタ野郎』と私。

青春ブタ野郎のアニメが終わり、そして原作小説も(幾つかの掌編小説と円盤に付いていたものを除いて)読み終えたので、『青春ブタ野郎』についての私なりの感想を書いておきたい。



原作を見ていなかった当初、桜島麻衣の認識問題という話を見て、青春ブタ野郎は何か哲学的な内容を展開していくお話であると思っていたし、個人の哲学や世界観に影響を与えた作品であるという点で評価していた。


しかし、原作小説を手に取り、読み進めていくうちに、『青春ブタ野郎』に対する評価は、当初抱いていた哲学的な内容ということよりも、思春期症候群に直面した彼・彼女らの境遇に、大学へ不登校だった過去や現在の自分を重ねて(自己投影して)、共感しているからであるからだと感じるようになる。

大学での不登校の始まりは、『おでかけシスター』における広川卯月の発言(学校に馴染めず「最初は、一日だけサボるつもりだった」)通りであるし、不登校から脱出しようとして久しぶりに出席しても梓川かえでが感じたように他者からの向けられる(と思いこんでいる)視線への恐怖は大学から自分を遠ざける原因であったし、また双葉理央のような人格が別れないまでも頭の中に対立する2つの存在(不登校を肯定的(楽観的)に捉える自分と否定的(悲観的)に捉える自分)や、そうなっている自分への強い自己嫌悪は、思考にノイズをかけ、不登校が長期化する原因であった。

また、梓川咲太が母親を無視していたことも、(生母と死別した後に)父親と再婚した継母と上手くいっていない、少なくとも「母」と読んでいない(思ってすらいないかもしれない)と重なるなど、登場人物の境遇とかなりの部分において重なっており、それゆえに登場人物に自己投影して共感へと繋がっている。

しかし、もしそれが『青春ブタ野郎』という作品への評価へと繋がっているとすれば、心に傷を負う出来事や、精神を病んでしまった過去がある経験が、登場人物への自己投影・共感することにより作品への評価を生んでいるとすれば、むしろ作品への共感や感動がなかった方が、はるかに幸せなのではないかと思ってしまう自分がいる。
考えるだけ無駄であるのに、「経験」をした故に作品に共感した幸せと、作品には共感しなかったけど「経験」がない幸せを天秤にかけて、果たしてどちらが幸せなんだろうか、幸せだったのだろうかと考えてしまう。

だけれども、共感しない幸せの可能性について考える一方で、「なかったことにしたい」とまでは思わない。作品に対する共感もそうだが、今自分が持っている考え方だったり、気持ちの持ちようであったり、他者への接し方であったり、今の自分を構成しているのは過去の出来事、それに直面した自分がいたから他ならない。豊浜のどかの言うように、「もちろん、『あのとき、ああすればよかった』とか、『もっとできることあったかな』とか、後悔はする」ことはあるけれども、今の自分を完全に否定してまで、過去を無くしたいまで思わないし出来ない。しなくていい苦労も数多く経験しているが、今の他人への理解しようとする優しさを生み出しているのであれば、それで十分である。



『青春ブタ野郎』は、思春期の少年少女の葛藤を描いた作品である。主な対象は思春期真っ只中の中高生なのかもしれないが、モラトリアムをいつまでも継続している大学生や社会人にも非常に有用であると思う。
それは作品への共感というよりも、登場人物のメンタリティ(私であれば広川卯月や豊浜のどか)に学ぶという点である。彼・彼女らが自己の問題に対してどのような心の持ち方で、どのように折り合いを付けていこうとしているのか、そこを見るべきだろう。



私は『青春ブタ野郎』を見てこのように感じた。



■追伸

登場人物への自己投影以外にも、もちろん登場人物が魅力的であるからだったり、『青春ブタ野郎』を最初に見た(1、2巻を読み終えた)時点でのように、読み手の経験に関係なく作品として優れているから共感していることもある。
けれども、全て読み終えた時点ではそれが忘れるぐらいに自己投影している部分が大きく感じられた。
posted by ふおん at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 感想・随筆

2018年12月29日

入手不可能な「モノ」の合理化

この記事の名宛人は誰なのか、と問われそうなので最初に断っておくと自分宛てです。自己宛の記事ですので、記事中に出てくる方や世間一般に対して発信しているわけではない、ということに留意してください。



A-47ab「NtyPe」から出される青ブタ本が欲しいのであるが、諸般の事情(大人の事情というか中身の事情だろうけど)により委託はなし。別のイベントでの再販があるらしいが入手確実性と費用面でかなり厳しい。誰かに頼もうにもつてがない。交友関係の希薄さと、手持ちのなさ、そして今年サークル参加(ユーフォは1日目だった)しなかったことをまず悔やむ(反省す)べきなのであろうが、「入手不可能な本」なるものが生じる。

入手不可能なモノについて、どうやって納得させるか、どう合理化するかを考えながら1日を過ごす。
別のイベントに参加しないのは確実性のなさであるとか、イベントに参加することによって得られない(失う)ものが生じるであるとか、全ては追えないのであるから今回は諦めるものだっただけのことであるとか、「青ブタ」や彼女たちは自分の全てではないであるとか、そして現在の状況は生き急ぎ過ぎている異常に過熱した状態であり、「青ブタ」しいては彼女たちを、双葉理央が最も忌避していると考えられる、「モノ」として“消費”しているだけに過ぎないのではないか、「モノ」として考えているから入手不可能な現実に対して否認しているのではないのか、等考え、入手できないことに対して納得を図った。

しかし、ツイッターで検索していると入手し喜びのツイートをする方々であったり、内容が良かったなどのツイートを見るに、どうしても入手したいという欲を抑えられない。
数時間悩んだ挙げ句、こみトレ33に行くことにしたのであるが、この判断は良かったと20日言えるのであろうか。
posted by ふおん at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 感想・随筆

2018年12月19日

最近の心境の変化。

大学に入ってからはや6年の月日を過ぎようとしているが、うち3年間は大学に通っていなかった。理由をあげればきりがなくなるが、その間に強力な自己嫌悪と人間不信に陥り、かなりの部分において自己と他者を遮断するような生活を送っていた。そのような生活を送っていると、他者に目を向けるという行為が次第になくなり、好意を向けるといったようなものも気づいた時にはしなくなっていた。

『青春ブタ野郎シリーズ』の言葉を借りれは「サル同然の男子」だった中高生時代であるからして、この「好意を向ける」という好意はイコールとして性的欲求に基づくものであっただろうが、その根源が何であれ大学入学以前において普遍的に存在していた「好意を向ける」という行為が、つい最近まで、それを意識するこそさえ、無くなっていた。

しかし、大学6年目に大学に復帰を果たし(実際には4年目にも一時的に復帰したが、5年目に再度不登校になる)、授業で他者と関わっていくうちに、他者に対する人間不信が薄まるにつれて、授業内で関わっている方に好意を抱くようになった。
また、その感情を抱く根源が、対象となる人物の性的なもの(例えば身体的特徴)よりも、その人物の行為に現れる(内部化された)性格に好感を持ち、好意を寄せるようになった。

授業中や授業外において、時折彼女が振り向ける笑顔であったり、親切心であったり、彼女の行為に現れる性格は、決して私個人だけに向けられたものではないだろうが、それを受けた時にとても嬉しく感じるし、それを得たいがためにもう少し同じ時間を同じ空間で過ごしたく思う。

これ以上のことは望んでいないし、また彼女自身は私のことは歯牙にもかけていないだろうから、特別なにかをするまでもないのであるが、他人に好意を寄せるという行為が出来るようになった、という精神的な、また個人の心境の変化が見られた(心境の変化を感じた)最近の出来事であった。
タグ:大学
posted by ふおん at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 感想・随筆