2018年11月02日

鴨志田一『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』のレビュー

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<鴨志田一『青春ブタ野郎』>

前回の投稿(「『青春ブタ野郎』と個人的な哲学・世界観。」)をAmazonやブクログのレビュー用に編集して(再)投稿。






点数を付けること自体おこがましい事かもしれないのであるが、この作品は100点満点中2兆点、某作品の例に倣えば「100万点」である。もはや点数を付けるという事自体が無意味と思われる程に圧倒的、そして絶対的と言い切れる程に高評価である。

作品のあらすじであるとか、(文学上の?)講評であるとか、登場人物が魅力的(例えば双葉理央に「ブタ野郎」と言われたい)であるとか、それらは既に多く語られており、あえて私が触れるのは無意味かと思われるのでそこには触れずに、私がこの作品のどこを評価し、そして何故オススメしたいかを書いていきたいと思う。

書いていくにあたって、私は学問としての哲学を学んでいるわけでは無いので、講学上の哲学とは少し違うこと、間違っている可能性があること、そして少しのネタバレがあることについて予め断っておきたい。



*****



個人的な哲学、世界観の話で申し訳無いのだが、この作品に出会うまで、私が持つ世界感というものは

「「私」が認識していないもの(事物)は、存在していない(ものと同意である)。」

「唯一認識し得る「私」が観測しているものこそ世界だ」

という独我論的(あるいは唯心論的)なものであった。

そもそも、これを強く感じるようになったのは、中学生時分に「死」や「死後」について考えており、その最中に『涼宮ハルヒ』シリーズを読み(アニメを観て)、作中に出てくる「人間原理」がそれらの答え(「観測者である「私」の死とはすなわち、世界の終わり」)から来ているのであるのだが、以降10年来この独我論的な世界観(個人の哲学)によって私の思考は定義づけられてきた。

しかし、この作品においては、思春期症候群に罹った桜島麻衣に対する認識は一度消失しても存在そのものは消えず、桜島麻衣を再認識した梓川咲太によって再度全人類にその存在が再び認識せられるというように、事物の存在は観測している人の認識に関わらず、事物は認識の消滅によって(認識可能な)世界(あるいは、桜島麻衣という固有の時間が(認識可能な)共有している時間)から切り離されながらも存在していたのであった。

 一般的(?)な考えであれば、事物の存在は認識しようがしまいが、存在しているものと扱われるのかもしれないのであるが、先述の通り

「誰にも認識してもらえなければ、この世に存在していないのと同じ」(p.268)

のような、「私」(観測者)の認識が事物の存在を定めるという哲学・世界感であったため、この存在の絶対性という概念は非常に衝撃的であった。『涼宮ハルヒ』で「人間原理」を知り、「私=世界」であると感じた時と同じぐらいの衝撃度合いであった。

 このインパクトはおそらくそういった私個人の歴史的背景や哲学・世界観からくるものであり、読んだ人間が必ずそうなる(自分以外の人間がそう思う)とはよもや思わないし、また作者の鴨志田一さんはどこまで意識されていたかは定かではないが、個人の哲学や世界観を変える(影響を与える)だけのポテンシャルがある作品であり、現に私がそうであったと主張し、故にこの作品を評価し、強く勧める所存である。



■追伸

ショーペンハウエルや戸坂潤ではないが、「読む」こと以上に「考える」ことを大切にしていきたい。

posted by ふおん at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー